「見えません」には対応するのに、「聞こえません」はなぜ我慢になってしまうのでしょうか

今回、災害支援で避難所を回りました。

補聴器を売りに行ったわけではありません。

聞こえで困っている方がいたら、何かできないか。

そう思って、配布する電池やメンテナンス用品だけでなく、測定器や調整の道具も持って行きました。

補聴器の貸し出しについても、事前に協力をお願いしていました。

ところが、避難所を回っていて、ひとつ気になったことがあります。

聞こえで困っている人が、そもそも誰なのか分からない。

たとえば、

「眼鏡をなくして、見えません」

という人がいたら、どうでしょうか。

おそらく、

「それは困りますね。何かできることはないか」

と考えるのではないでしょうか。

ところが、

「補聴器をなくして、聞こえません」

だったらどうでしょう。

本人も、 「こんなときに、自分のことで迷惑をかけたくない」 と思って、言い出さないかもしれません。

周りも、 「年齢的に仕方ないのでは」 と考えてしまうかもしれません。

そして結局、誰にも悪意がないのに、聞こえの問題だけが我慢になってしまう。

私は、そこに違和感があります。

なぜ「聞こえ」だけが後回しになるのでしょうか

これは、災害のときだけの話ではありません。

これまで介護や認知症、介護予防など、人を支えるさまざまな現場に行ってきました。

そこで感じてきたのが、 「聞こえ」が、あまりにも見落とされているのではないか ということです。

認知機能を見る。
身体の状態を見る。
生活環境を見る。

でも、「この人は、必要な話をきちんと聞き取れているのだろうか」という確認は、意外と抜けています。

聞こえにくければ、会話が難しくなる。

説明も分かりにくくなる。

人との関わりが減ってしまうこともあります。

それなのに、

「年だから仕方ない」

で済まされてしまう。

これは、最近になって分かった話でもありません

2017年、Lancetの認知症予防に関する委員会は、難聴を認知症の修正可能な重要なリスク因子の一つとして示しました。

もちろん、 「難聴になると認知症になる」 という単純な話ではありません。

補聴器を使えば認知症を防げる、という話でもありません。

ただ、聞こえにくさを放置することについて、もっと考えてもいいのではないか。

私はそう思っています。

2017年から、もう9年です。

それでも今なお、 「聞こえにくいけれど、年だから仕方ない」 と済ませてしまうことがあります。

本人が言うのを待つだけでは、見つからない

今回の避難所で感じたことがあります。

聞こえに困っている人がいないのではありません。

困っている人が、見えないのです。

本人は「迷惑をかけたくない」と言わない。

周囲も、聞こえの問題だと気づかない。

だから、支援する側にも分からない。

だからこそ、災害が起きてからではなく、 平時から聞こえを確認しておくことが大切なのだと思います。

「聞こえにくい」を、我慢しなくていい

見えにくければ、原因を確認して対応します。

眼鏡が必要なのかもしれない。

目に問題があるのかもしれない。

原因が何であっても、まず確認します。

だったら、聞こえにくいときも同じでいいはずです。

年齢によるものかもしれない。

耳の病気かもしれない。

補聴器が必要なのかもしれない。

大切なのは、 「年だから仕方ない」で終わらせないこと。

そして、 本人が我慢しているのを、当たり前にしないこと。

今回、災害支援で避難所を回って、私は改めてそう思いました。

「聞こえません」と言っていい。
「困っています」と言っていい。

そして、周りも、 「では、どうすればいいか考えましょう」 と言える。

私は、「聞こえにくい」を、我慢するしかないことにしたくありません。

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